2009年5月22日金曜日

危機の時代 - オルテガ

スペインの哲学者、オルテガ(1883-1955)によれば、中世封建時代の思想が内部崩壊してから、人間の自由の探求が始まる近代社会までの約300年間は「危機の時代」というそうだ。ルネッサンスの時代でもあるわけだが、古き世界感や信念体系が崩れ、新しい物が成立しない時代で、正に世界観の崩壊状態だったが、その混沌と混乱の中で、原点が見直されて行く中で、近代という社会が出現したという。となると、合理主義の思想、市民革命を経て出現し、今まで続いたこの近代社会は、フクヤマが言うように、冷戦の終結で、その「自由を求める」という原理の躍動に終止符を打ち、世界観の再びの崩壊を向かえているのも知れない。世界がネットで結合された、マクルーハンのいうグローバルビレッジの中での、新しい次の世界観、世界社会が目に見える頃まで生きてはいないとは思うが、地縁、血縁の古代社会性を残したままの擬似的近代社会を過ごした日本は、次の世界観の中ではどうなっているのだろうか。

2009年5月21日木曜日

ゲシュタルトの祈り - 自立と自由

昨年までの自分だったら、結構大変だったかもしれない。殆ど毎月NYと東京を往復していたからだ。もしNYへ居たなら、しばらく帰国ははばかられた事だろう。そういえば、5-6月に卒業する、米国への留学生達の帰国は今年はどうなるか?6末には、彼ら対象の就職イベントなどがあるが、もしかすると注目度が高まるか?マスク姿はまず間違えないところで、TVニュースにもなりそうだ。さて、休校や、旅行中止が増えているが、こういうときほど現場での個人の判断が試される。NYタイムズを見ると、NYでも今日新たに2つの高校が休校だが、市の教育委員会の指示と書いてある。日本では、こういう事態になると、上へ上へと判断を仰ぎ、個人の判断を回避する。それはやはり、個人と社会の構造の問題だろう。ちょっと関係なさそうだが、野球の審判の態度をよく考える。アメリカでは、審判という個人がルールブックで、日本はマニュアルのルールがルールブックだ。もちろん、アメリカでは審判は個人のスキルの自己研鑽は怠らず、その「個人の判断」が一つの醍醐味となる。私は私、あなたはあなた。対等で自立した関係で成り立つ社会だ。

2009年5月20日水曜日

社会の成り立ち - 自由の相互承認

アジア風邪は私が小学生の時だったが、なんとなく家族で枕を並べて寝ていたような記憶がある。その後高校生の頃に、ソ連風邪があったというが、その記憶はない。今回のやつは、まだ終ってみなければ顛末は分からないが、過去にものに比べてどうなんだろうか。今は関西だが、間違えなく東京へもやってくるだろうが、その時はかなりの騒ぎになりそうだ。過去の場合も、やはり報道などは大騒ぎしていたのか。ネット社会ではなかったから、諸外国の情報の伝達も遅かったし、ましてや今回のメキシコでの初期の映像なんてのは無かったろう。しかし、アメリカではどうかと考えると、まったく無視はしていないだろうが、どう考えても、日本のような大騒ぎはしていない。つまり、メディアに踊らないと言う事か。自分の頭で考えて判断する自律した個人が作る社会か。逆に日本は、誰かが作り動かす社会の中で、もがく個人と言う事か。どちらも社会は社会だが、どういう社会かどうかが問題なのではないか。

2009年5月19日火曜日

功利的親行動 - ヘソの緒からヘリまで

日本の新型インフルへの対応について考えている。マニュアル的な官僚体質もあるだろうし、公の仕事に対する民の反応もある。と考えていて、又、「モンスター親」を考えた。そういえば、アメリカでも「ヘリコプター親」なんて言葉があったなと、調べてみる。さすがに、「理不尽な教師いじめ」とは書いていないが、「学校の上を旋回して、子の教育への障害をすぐさま取り除く親」とあった。北欧では、「カーリング親」と言って、「目の前の障害を掃き掃除する親」なんてんのもある。アメリカに戻れば、更に「ブラックホーク親」という「超えてはいけない一線を越えて助ける親」、例えば、「受験のための論文代筆」をする親。「芝刈り親」という「就職した子供の給与にまで口出す」親までいる。背景の一つには携帯の普及があるとされ、「世界最長の臍の緒」なんて表現も出ている。日本の「公と私」の問題から外れたが、「世界資本主義の世の中で、親は子供への投資の効率の最大化を目指す行動をしているとも言える」とも書いてある。

2009年5月18日月曜日

勝者の歴史? - 残ったものが勝ち?

「三国志が、どちらかというと劉備の蜀びいきに書かれているのは、編纂にあたった書士に蜀出身の物が多かったからだ」と北方謙三がラジオで語っていた。日曜は天気が悪いと言うので、ゴルフは土曜日にして、その日曜はレッドクリフを見た。元々こういう編纂史は、物語として事実を脚色しているわけだが、吉川と北方の三国志でもかなり違い、この映画はもっと違う。例えば、「赤壁」と言う地名は、炎上した状況を受けて後でついた名前だが、映画では最初からこの地名になっている。ま、そんな事はどうでもよいのだろう。何日か前に書いた、数万年前の洞窟画ではないが、残った物だけが史実となるのだ。ところで、昨日はまだマスクをして見ていたのは私くらいなものだったが、これからはそうはいかないと思うがどうだろう。Outbreakという映画で、映画館で菌が広まってゆくシーンを思い出す。